みんな誤解してます。
投資は、「何を選ぶか」ではなく、「いつ買って、いつ売るのか」によって決まる、というのが真実です。つまり、銘柄はなんでもいいわけです。本質的に、買えない株というのはない。なぜなら、価値と価格の差と、その解消可能性こそが投資の利益であって、価値があるか、どうかは投資の収益とは直接、関係ないからです。ほんとのダメ株だって、それ以下の評価なら買えるし、トヨタやキャノンだって高ければ買えないわけです。
そして、いつ買って、いつ売るのか、という点について、理解しておくべきことは、行動の本質は「感情」にあるということです。
私たちの行動は、(潜在的にせよ、顕在的にせよ)実際には、感情によって行なわれ、論理によって正当化されます。そうであるならば、行動の動機である感情こそが、投資収益の本質といえます。損失は、感情によって生まれる、まずはそれを理解する必要があるでしょう。
私たちは、買値より大幅に株価が下がると、非常な苦痛を感じます。そして、その苦痛に耐えられなくなったときに、株を手放し、損を確定するのです。
そして、買値より少しだけ上がると、非常に快感を覚えます。それは、「勝った(読みがあたった=自己肯定)」という快感なのです。買値よりも何%あがったかということは、感情には大きな影響をあたえません。大事なことは、株価>買値であって、株価?買値(つまり利益幅)ではないということです。
また、買値より上回っているとき、私たちにはもう一つの感情が芽生えます。それは、不安です。つまり今の勝っているという状態が、もしかしたら株価の下落により失われてしまうという問題なのです。このような単純な事実をみると、感情に従った行動の結果は、次のとおり整理されます。
苦痛の限界で、感情から開放されるために売却
→損失幅は大きい(苦痛への耐久性が強い人ほど損失は大きい)
「勝った」という快楽と、それを失いたくないという不安の感情により売却
→買値より、増加幅は少ない(得られたはずの利益を失いたくないという不安への耐久性が弱い人ほど利益は小さい)
1と2の結果から、導出される論理的な答えは、「感情に基づき、売買を繰り返すと必ず損をする」というものです。では、これに対する答えは? 3つです。
一つは、「マゾ」になること。苦痛の極限で買いを入れ、快楽を無視し、不安を抱えながらホールドすること。これができれば、感情は、敵ではなく、味方になるでしょう。
一つは、感情以外に基づいて行動することそれは、不安や欲望という感情でなく、企業の置かれている「真実」をみて判断し、断固とした勇気をもって、行動することです。具体的には、会社の価値を見るということになるのでしょうか?
たとえば、買値より大幅に下回っている状態というのは、感情的には苦痛は増大しつつも、論理的には、割安度は増大している(つまり上昇可能性は高まっている)ということです。したがって、このような状態で、真実を見つめ、「買い」を取れるのであれば、投資利益は実際に高まるでしょう。
もう一つは、行動しないことつまり、行動が感情にもとづくものであり、しかも感情をコントロールできないと悟るのであれば、行動せず、利益を得るという方法を選ぶのが適切と思われます。
バフェットの投資の成功の本質は、私は、どちらかというとこの「行動しないこと」にあるのだと思います。彼の基本路線は、「株は売らないもの」です。論理的には、ROE20%で成長を続ける株を、PBR1倍で買うのであれば、複利で、20%ずつ資産は増えていく計算になります。これがバークシャーの長期的な利益の源泉になっているのではないでしょうか?
一見論理的には、価値と価格の差を見出すとともに、その解消速度を読むことが、もっとも資本効率が高そうですが、それは、机上論であって、あくまでも、論理のもとに感情と行動を置くことが出来た場合に限られます(私は「新しい株の本」では、差と解消速度こそが収益の源泉と書きましたが、それは必ずしも本質ではありませんでした)。
したがって、私自身は、行動しないこと、つまり売買しないことを前提に投資をするように心がけています。そうなると、投資収益は、PBR1倍で買ったとしてもその企業のROEに依存してしまうわけですが、私の本業との兼ね合いやエネルギー効率から考えてもその方が良いのではないか、と考えるわけです。単純に、投資分析や売買が面倒なだけかもしれませんが(笑)
私にとっては、単に株を“売買”して“お金”を増やすより、信頼して共に付き合いたいと思える企業にお金を託し、長期的な付き合いをしたほうが幸せなのです。(これは本音)結局、企業との一体感(愛)のある長期的関係が、最後に勝つのかもしれません。
最近、投資とは何か?を問うためには、改めてお金とは何か?を問うことの大切さを感じます。そして、お金とは何か?を問うためには、人生とは何か?を問わなければならないのかもしれません。